ビジョンストーリーサンプル

わたしの「ビジョンストーリー」

*自分の人生を振り返り、最終的にはこんなストーリーの作成を目指します。

1.プロローグ(はじめに)

私には「生涯を通じて幸せに生きていきたい」という思いが根底にあり、突き詰めると、それ は毎日を幸せに生きていくことであり、「死ぬ」その瞬間に最高の人生だったと思うことである。 これまでの人生、私にその思いが強かったことは、紛れもない事実である。

しかし、これまでの人生で「死」の瞬間が訪れていたとしたらどうだろう?胸を張って、「毎日 を幸せに生きてきた、最高に幸せな人生だった」と言えただろうか?答えは「No」である。

それはなぜか?自分にとっての「幸せ」って何なのか?そもそものところがはっきりしていなかった。 そして、それが原因で、これまでの人生、充実感を味わうことができていなかったことに気付い た。悩んだ末、辿り着いたところが津崎ファクトリーだった。

まず、津崎事務所で用意されたインフラである「花屋の MBA」で「幸せとは何か?」に対する 答えはすぐに見つかった。それは、自分の理想(ビジョン)に向かって日々実践していくことで ある。曇っていた空が一気に晴れ渡った感じだった。

では、その理想(ビジョン)は一体、何???それが見つかれば、自分の人生が変わっていくはずであると思い、迷わず津崎ファクトリーのビジョン・メーキングに飛び込んだ。

その中では、津崎ファクトリーオリジナルの MBAメソッドで私自身の拙く、凝り固まった考 え方を解きほぐしてもらい、ひとつひとつを構築し直すという作業を行った。その過程で、これ までの人生、自分の中に軸がなく、その場その場を浅い考えによる適当な判断で切り抜けてきて しまったことに気付いた。

同じことを繰り返したくないという気持ちも手伝って、自分の理想は 何なのか?どうなりたいのか?という考えの深堀を繰り返すことによって、光が見えてきた。

自分の中に軸ができつつある。ようやく「確たる自分」というものが掴めつつある。それはまだ完 全なものではないけれど、これまでになかった幸せを味わうことができ、自分が大きくなってい ることを感じずにはいられない。それは自分自身と社会との関わりを明確に意識することから始まる。

まだまだ、未熟ではあるが、勉強し、その成果をアウトプットしていくことで、生きてい るステージである社会に貢献していくことが、私にでもできるという可能性があることを学んだ。 これからの未来を私自身で切り開いていくのだという覚悟で勉強し、よりよい社会へと革新していくのだという気持ちでワクワクした 1 日 1 日を過ごしていくことを考えると幸せである。

2.結論


1)ビジョン
私のビジョンは「一流のビジネスリーダーとなり、人々のモチベーションを高め、社会を革新する原動力となること」である。

2)コア・コンピタンス
私の強みは「自らが向上し、人々のモチベーションを高め、成長のシナジー効果を生み出す力である。これまでの人生で強く認識している自分の強みであり、この力は、さらに高めていきたいと考えている。

3)それらの背景
大学卒業後に入社した会社で、働いている目的が何であるのかを考え始めた。しかし、自分では答えを見つけ出すことができず、人生をかけて達成したいことが何であるのか、将来に対するイメージを持つことすらできない状況であった。

そんな中で、社会を見据えて自分のビジョンを持つことが妥当ではないかという自分なりの「決め」を打つことができた。(もちろんビジョン・メーキングでの作業の中から)

そうしたときに、 今、自分を取り巻く社会に対して、知識をつけていくべきであると判断し、勉強を始めた。その中から生まれた自分のビジョンが、「一流のビジネスリーダーとなり、人々のモチベーションを高 め、社会を革新する原動力となること」である。

グローバリゼーションの渦中、日本社会は世界の中でのポジションを模索している。そんな中、 私はビジネスを通してリーダー的存在となり、日本人としての発言権を強くし、世界でリーダーシップを発揮することで、日本社会に貢献していくことを自分の軸に据えることにした。

自分達が生活する日本社会がボーダレス化し、世界中のあらゆる人々、文化、情報、マネーが入り込ん でくる以上、日本人としての強みをしっかりと認識し、どう生きていくかというビジョンを確立 させていないと、言いなりの社会になってしまう。

そんな日本社会の未来に問題意識を持つことができたので、私は国際感覚を持ち、理論と実践を兼ね備え、実績を出し続け、人々のモチベーションを高めていく一流のビジネスリーダーとなることで、社会革新を進めていく原動力となることが必要であると考える。

私はこのビジョンに向かっていく自分に幸せを感じることができると確信している。

3.生い立ち


1)生まれ、家族
私は、両親との 6 年越しの第一子として生まれた。2 人息子の長男。両親にとって待望の子供であったため、寵愛を受ける。

父親は祖父が経営する社員数 50 名程度の会社の専務。母親はその会社の事務員。祖父が一代で 築きあげた会社であり、当時は景気もよく、業績は好調であった。そのため、何不自由ない生活 を送らせてもらっていた。しかし景気後退とともに業績は悪化し、ついには倒産。

私の家族はゼ ロからのスタートを切ったが、両親とも、前向きな姿勢で新しい職に就き、家族を支えていった。 両親からはその前向きに生きる姿勢を学んだ。

2)小中学校時代
小学校時代は児童会長、中学校では生徒会長を務める等、積極的で活発だった。スポーツでは小学校のソフトボール、中学校の軟式野球とチームの中心として活躍させてもらった。何事にも自由にさせてもらった両親には感謝している。

3)高校時代
高校は文武両道の道を歩む予定であったが、「目指せ甲子園」という言葉で頭がいっぱいになり、学業の方はそっちのけで、野球に没頭した。しかし、最終的にはレギュラーを獲得することも、 自分達の代で甲子園に行くこともできず、悔しい思いをした。自分の努力だけではどうしようも ない現実があることを思い知り、自分自身が嫌になったこともあった。

今思えば、もう少しいろ いろな視点を持って取り組むことで、結果は変わっていたのかなと思うが、当時はいっぱいいっぱいで、自分は最善を尽くしたと思っていた。

その悔しい思いを大学受験の勉強にぶつけ、現役 で大学に合格した。高校 3 年間も両親は温かく見守ってくれ、自分の進路に関して、好きなよう にさせてくれたことに感謝している。

4)大学時代
学業を志して入学した大学であったが、授業への興味が湧かず、学業の方とは全く疎遠になってしまう。その代わりに打ち込んだのが、部活動であり、学生生活の 99%を部活動に費やした。 チームスポーツであるが、部員の9 割が初心者で、上級生からの指導と過酷な練習を乗り越える ことにより、リーグで戦える選手になっていくという環境。

私は中心的なポジションを与えてもらい、リーグで活躍することを目標に必死で取り組んだ。

だが、2年生の春のシーズンで大怪我をし、それから 4 年生の現役引退まで、自分の納得のいくプレーはできず、チームのメンバー、 支えてくれているスタッフのみんなの期待を裏切ることになってしまい、不完全燃焼という形にて選手生活を終了。

この大学時代の部活動と高校時代の野球に関しては、自分の中ではそれなりに必死で取り組んだにも関わらず結果を残すことができなかったという悔しさから、自分は「ダメな人間である」と自分自身を追い詰め、大きな喪失感を味わうこととなる。そういった状況から、何に対しても、 どこか逃げ腰のスタンスが無意識に自分にまとわりついていた。

5)社会人
大学を卒業後、営業力に定評のある会社に入社。入社後、法人営業部への配属となり、大手の販売店を顧客としたルートセールスを担当する。入社当初は社会人に慣れるのが必死で、先輩社 員の指導を仰ぎながらくらいついていった。お客様との面談回数を多くし、信頼関係を築くことが営業マンとして大切であるということを学んだ。

徐々に様々な営業スキルの精度を高めていくとともに、お客様へ情熱を注ぐことが、信頼関係を構築するための秘訣であると感覚的に実感す ることで、次第に実績が出始めた。

上司からは「売るものが何であっても売れる営業マンになれ」 という指導をしていただき、常にその意識を持って取り組んでいた。次第にそれまでの地道な努 力が功を奏し、好成績を収めることができるようになってきた。お客様との信頼関係にも手ごたえが掴める様になり、実績を叩けている自信から、周囲を見渡せるようになり、会社のことも少しずつ理解し始めた。

と同時に、自分の行っている仕事についても考えるようになり、危機感を感じるようになった。自分のキャリアに対しての不安が一番大きな悩みだった。そして、悩み抜いた結果、退職を決意する。

4.その他 私の人格形成に大きく影響を及ぼしてくれたもの


1)取り組んできたスポーツについて
学生生活は勉強よりもむしろスポーツ(部活動)をメインに過ごしてきた。どの競技において も、「うまくなりたい、活躍したい」と必死で取り組んできた。今思えば、もう少し、肩肘張らず、 冷静に自分を見つめて、明確に目標を持って取り組んでいれば、それぞれのステージでの結果が 自分にとって納得のいくものになっていたのではないかと振り返ることができる。

小学校でのソフトボールは各学年単位でチームを結成する仕組みで、ピッチャーで 3 番バッタ ーをやらせてもらっていた。おまけにキャプテンも任されていて、チームの中心で活躍させても らった。しかし、大一番の大会前に、体育の授業で足を骨折した。私自身が大会には出場できず、 チームも敗退してしまった。本当に皆の夢をぶち壊しにしてしまい、申し訳なかった。

中学校では軟式野球部に所属した。高校では甲子園を目指そうと思っていたので、野球部に所 属した。ポジションはショートをやらせてもらっていた。ただ、上級生にはかなわなかったため、 3 年生になるまで、試合に出ることはなかったが、3年生では、3番ショートでレギュラーとして 出場させてもらった。一番大きな大会では一回戦負けで、悔しい思いをした。

高校は甲子園を狙える位置にいる高校に入学した。非常に厳しい監督の指導と選手個々の自主性がうまく融合している急成長の学校であった。中学校の頃から何度か試合を観に行く機会があったが、溌剌とプレーする選手達に憧れを抱いていた。

実際に入部すると、これまでやってきたレベルとの違いに愕然としたが、練習を積むことでレギュラー選手へ近づけるだろうという期待を胸に、基礎体力作りから取り組んだ。しかし、最終的にはレギュラーとして甲子園に行くことができず、悔しい思いで引退を迎えた。

大学では、野球の挫折経験から、勉強に精を出そうと思っていたが、真剣に日本のトップチームになることを目指しているというチームスポーツの勧誘を受け、その部活動に入部した。部員 の 9 割は初心者で、未経験軍団が、ゼロからのスタートとなるが、先輩からノウハウを引き継ぎ、 高い意識を持って取り組むため、経験者ばかりの他大学とも渡り合えるようになっていく。

練習・ 試合・チーム運営等のほぼ全ての活動を学生主体で行わなければならないのと、準備に時間をか けるスポーツであるため、1 日のほとんどの時間を費やした。徹底的な練習と研究の成果により、 1 年間で試合に出られるくらいに成長することができた。

しかし、2年生の春に大怪我をし、手術やリハビリで 1年間を棒に振ることになる。その間、チームメイトはどんどん成長し、自分が怪 我から復活したときには、自分の居場所がなくなっているようだった。

3年生の春には、そのあ せりから、今度は別の大怪我を負った。周囲は私に対して、「復活してチームを引っ張ってほしい」 と期待をかけてくれているのとは裏腹に、自分の気持ちは投げやりになっていき、チームから心 が離れた状態になってしまっていた。それでもなんとか復活したが、自分のパフォーマンスでは チームに迷惑をかけてしまうような状態が続いた。

その悔しさから、とにかく練習をするべきだと思い込んで練習を続けたが、それが空回りとなり、自分へ与えられる機会はなくなっていった。 それでも、最終学年となる前に、同期の仲間からはチームへ貢献するように再度期待をかけてもらった。

最終学年の 1 年間はそれまで以上に必死になって闘った。個人のパフォーマンスは伸び悩んだが、チームは最低限の結果を残すことで、安堵の溜め息をつきつつ現役を終えた。

学生時代のスポーツ経験が私の人格形成に与えていた影響は図りしれないほど大きい。だが、 ビジョン・メーキングを行う前までは、これまでの経験を客観的に分析することはなく、その経験が自分の人格形成にどのような影響を及ぼしていたのかに気付かないでいた。

ビジョン・メーキングを行って、上記のように振り返ることで、自分は、常にうまくなって活躍したいという向 上心を持っていたこと、怪我をしても前向きに取り組んでいく姿勢を持っていたこと、それらが、 周りの人へ伝わって、よいモチベーションを与えることができていたこと、さらにその周りの人 達の力が自分を成長させてくれていたことに気付いた。これこそが私のコア・コンピタンスであ る。

小・中・高・大と、どのステージにおいてもチームスポーツに携わり、私自信のコア・コンピ タンスを育成してきていたわけだが、準備社会(実社会ではなく、あくまで学生で形成される社 会を私が仮称した)の中で結果を残すことができていたのかというと、どのステージにおいても 結果は不十分であった。

どのステージでも「勝利すること」が結果を出すことであったとするの ならば、自分がチームの中で与えられている役割を正確に認識し、その役割を果たすための合理 的な練習を行い、その成果を客観的に分析し、チームへの貢献度を上げていくことを強く意識し て取り組めていれば、若干、違った結果になっていたのかもしれない。

「好きだからやっている」という自己中心的な考え方のみで、広い視野を持って活動しなかったために、どれほど多くの方に迷惑をかけ、失望をさせてしまったか。今後の実社会での巻き返しを自らも期待しているところであり、スポーツを通して培った体力はその原動力となるはずである。

2)社会人としての経験
試行錯誤しながら成果を出すことがどういったことであるのかを模索し続ける日々が続いた。その中から学んだのは、「顧客との信頼関係を築くこと」で突破口が見出せるということだった。

人間としてもまだまだ若く未熟で、営業としてのスキルもなければ、決裁力もない人間が契約を 獲得するには、足繁くお客様の元に通い、お客様からいただく課題を解決し、その過程で得た情報を元に、お客様の役に立つ情報の提供を繰り返すことであるということを感覚的に身に付けていった。

また、チームで目標達成への意欲を共有することがいかに大事であるかを学んだ。仕事 というのは、一人ではできないという当たり前のことを身をもって体験できたことは、今後のキ ャリアにも繋がる非常によい経験であった。

5.エピローグ

今、私は人生の転換期にある。自分の中に核ができつつある。これは、今まで自分が常に求めていたものである。今、この段階で自分のビジョンに決めを打ったことで、そのビジョンに向かって生きていることが、非常に充実していて、毎日が楽しい。そのビジョンに向かっていくためには、一生勉強し続けて、自分を磨いていかなければならないことも悟った。

理論と実践を積み重ねて邁進し続ける。私自身が邁進していく中で、周囲の方からモチベーションを与えていただいていることに感謝を忘れず、常に謙虚な姿勢で学び続けていきたい。